七色の変化球と電気を通す手紙

チーズの種類には多様な分類が存在する。

「とろ~り3種のチーズ牛丼」では3種、「クワトロフォルマッジ」では4種とされているが、実際に自然界に存在するチーズは連続体を為しているため合理的な境界線が存在するものではなく、チーズを何種類数えるか、またどこからどこまでを特定の種のチーズと分類するかは個々の文化の習慣によるのである。

 

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『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』(ガイ・ドイッチャー)ではホメロスの作品における風変りな色彩表現とそれに関する研究史を皮切りに様々な事例を引きながら、言語によるさまざまな世界の切り取り方、そしてそこに反映された文化的慣習は人間の思考に影響を与えるかという問いに考察を加えている。

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ホメロス叙事詩では海を『葡萄酒色』と表現している」が第1章で登場するのをはじめ、色彩を表す語彙は本書に最も頻繁に取り上げられる例であり、第1章のサブタイトルは「虹の名前」になっている。

虹といえば文化による色彩の違いで引き合いに出される定番で、虹の色が言語文化によって六色だったり三色だったり二色だったりする話はいろんなところで紹介されている。日本では七色というのが普通で、種類が多彩であることを比喩的に表すときにも使われる。

 

 

日本の野球には「七色の変化球」という(古い…?)言い回しがあるが、変化球も色と同じように切り分け方次第でいろいろな分類が可能な例だと思う。

20年くらい前まではカーブはカーブ、スライダーはスライダー、という感じで七色プラスアルファくらいだった気がするが、最近だとカーブだけでもパワーカーブ・ナックルカーブ・ドロップカーブと細かく名前がついたり、ツーシームという聞いたことのなかった変化球をいろんなピッチャーが投げている。スラーブなんて名前も昔はなかった気がする。

もちろん実際に新しいタイプの変化をしているボールもあるのだろうが、それよりは分類方法の側が細かく変わったりMLBから用語を取り入れて名付けたりという要素が大きそうだ。

 

「投げている本人次第で呼び方なんて変わっちゃう」という識者の意見がこちら。

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「小さく曲がるのがカットで大きく曲がるのがスライダーだとして、その境界は投手しだいなので投手Aのカットより投手Bのスライダーのほうが曲がりが小さいこともありうる」という話が文化ごと異なる色の分類とちょっと似ていて、同じことを変化球では個々の投手ごとにやっているのかなと連想した。

 

ここまでは「虹の色の数は文化ごとに違う」と同じ相対的な見方。

本書の第9章で紹介された実験結果によると、2つの色同士の距離はその2色が色の名前の境界をまたぐと、同じ語彙で表される2色よりも相対的に遠く感じる(反応速度が速くなる)結果がみられたことから、言語が色彩感覚に影響を与えていそうだという考察が導かれている。

 

もし同じように考えてよいならば(よくないんだろうな)、特徴的な変化球に名前をつけることで反応が良くなって打てるようになったりするんだろうか…?それなら投手はオリジナル変化球の名前なんか付けないで「至って普通のスライダーです」と言ってたほうが対策されにくくて得…?

なんか野球がおもしろくない方向に進みそう。少なくともパワプロプロスピの魅力はちょっと落ちるだろうな。

 

(一球一球のボールには厳密にいえば一つとして同じものはないが、握りや速度や軌道や曲がり方といった属性で分類していると考えれば言語の音声に似てる?とも思ったのでまた考えてみたい)

 

関係ないけど上の動画の背景の本棚にあの『コンテナ物語』が並んでいるのを発見した。

 

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本書8章では文法上の性(ジェンダー)に関しても言語が思考に影響を及ぼしていると考えられる研究結果が紹介されている。

文法における「ジェンダー」という用語は広く言えば名詞のタイプ分け・クラス分けのこと。「男性名詞」「女性名詞」というやつである。

「ジャンル」と同語源で、必ずしも本質的に男性/女性の分類を指すわけではなく他の線引きをもつ言語もあるが、多くの欧州の言語でみられる体系では男性/女性の分類になっており、しかもそれがかなり自由奔放、悪く言えば無秩序に分類されている。

 

フランス語の「髭」は女性名詞、ロシア語の「水」は女性名詞なのに「茶」は男性名詞、ドイツ語の「ナイフ」「スプーン」「フォーク」は順に中性・男性・女性であるがスペイン語では「フォーク」が男性で「スプーン」が女性、といった具合である。

欧州以外の言語でもこのような一貫性のない(少なくとも法則を見いだせない)文法的ジェンダー体系を持つ言語はたくさんある。

 

どうしてこんなことに、というのはこのような言語を学んで苦労したことがある人なら一度はぼやいたことだと思うが、起源としてはどうもその種類全体を表す総称名詞が名詞につけられたのがジェンダー・マーカーのはじまりっぽいぞ、ということらしい。

最初は透明性のある分類体系だったとしても、次第に当初の担当領域外の名詞や新しい概念にも徐々に拡張適用されていったり、分類が3種類から2種類に減って無理やり2種類に再分類されたりといったプロセスを経ることで分類の一貫性を失ったという経緯である。

 

この章の主要なところで本書全体のテーマと関わるのは、「男性/女性名詞」という文法的ジェンダーの結びつきが、その名詞が表す概念に関する連想に影響を及ぼすかどうかを確かめる実験の数々である。

スペイン語・ドイツ語話者の実験参加者に無生物の男性名詞/女性名詞に男性/女性の名前を付けて記憶させる実験で、文法的ジェンダーと名前の性別が同じだと覚えやすく異なると覚えにくいという結果から「無生物と男性/女性の連想関係が、情報を記憶する能力に影響するほど強い」、つまりここでも母語が思考に影響を与えているのだとまとめている。

 

ただ個人的にはそもそも男性/女性の分類以外の文法的ジェンダーが多様に存在することを知らなかったので、スピレ語の「人間・大きなもの・小さなもの・集合体・液体の5種」やガンギテメ語の「人間の男性・人間の女性・イヌ・イヌ以外の動物・植物・飲み物・槍の大きさと素材によって二種類など合計15種」となどというジェンダー分類があること自体が目新しく、「なんでもいけそうだな」と思ってしまった。

 

例えば「電気を通すか通さないか」というジェンダーを考え、「電気を通す」名詞にのみ何かのマーカーが付くと仮定する。総称名詞から出発したらしいということでとりあえず「電」をつけることにして例文を考えてみると、

 

タブレット電やスマホ電で読書をする人電が増えてきているが、紙の本の魅力電も捨てがたいものがある。

 

と読みにくい文章ができあがる。

タブレット」や「スマホ」や「人」には電気が通るし、「紙」や「本」、それらと近い「読書」は通らないという分類でよい気がする。「魅力」が導体でいいのかはわからないがどちらかといえばそうなりそう。「もの」は意味が広すぎるが適当に絶縁体にしておく。

 

他にも「哲学」や「言語」はなんだか絶縁体に分類されるような気がするし、「年収」は貴金属や硬貨なら「電」が付きそうだけど、お札を想像すると絶縁体かも、でも最近は電子的に振り込まれることがほとんどだろうからいま分類するならやっぱり導体のままでいいか…。半導体は電気を通すので導体名詞に分類、2つしか分類がないからしょうがない。

 

こうやってあらゆる名詞が無理やり分類されていったら、時を経るにつれて「なんでこの名詞が導体扱いなんだ?」という、本書で紹介されている男性/女性名詞の実例と同じような混乱が起こるのも無理なかろうと思える。

 

この分類をもつ言語の母語話者はあらゆる名詞に電気が通るかどうかを半ば無意識に考える習慣を身につけているだろうし、この言語を学習しようとする人は「なんで朝が導体で夜が絶縁体なんだよ!」などと不合理な分類の覚えにくさに腹を立てながら学ぶことになる。導体名詞に「電」を付け忘れたり絶縁名詞に間違って付けたりすると、母語話者からは変な顔をされるし試験ではバツをもらう。

常に電気を通すかどうかに敏感な言語の話者であれば、本来は絶縁体の「手紙」に電をつけることで書き手や受け手の涙で濡れていることを示唆するみたいな詩的(?)表現ができるかもしれない。全く流行らなさそう。

 

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プロローグにもあるとおり「全ての言語は同程度に複雑で、母語の固有の特徴が思考様式に影響を及ぼすことはほぼない」という多数派的な意見に対して、近年の研究結果から「いやいやけっこう影響はもたらしてますよ」と示すのが本書の筋である。

論旨としては確かにそうなのだが、本書で紹介された様々な実験・研究を知って感じたのはむしろ「言語慣習が思考に影響を与えている」ということを示すにはここまで厳密に慎重にやらなくてはいけないのだという厳しさのほうだった。

エピローグで「戦果を喧伝するのは負けている側。脳のしくみはまだまだわかっておらず、当分野の研究は実は依然戦況不利」という姿勢だったのも印象的だった。

 

初めは翻訳書のためかやや迂遠な書き口に感じたが、ペースをつかんでからは全体を通して機知に富んだ文章を楽しむことができた。表層的だった言語相対主義に関する理解を少し深めることもでき、「自然派」と「文化派」の間の応酬が振り子運動のように進んできた経緯を追いかけるのも非常にわくわくする読書体験だった。

 

※冒頭の妄言は、本書巻頭に掲載されている、少しずつ色相や明度の異なるカラーチップが連続的に並んだ図を見ていろんなチーズの写真を同じように並べた画像が思い浮かんだことによるもの

 

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定番ネタともいえる色彩に関することばについて、手元にある本や最近読んだ記事などだけでも結構言及があったので並べてみる。

 

古代ギリシャの色彩についてはちょうどいま読んでいる『古代ギリシャのリアル』(藤村シシン)に言及がある。「ワイン色の海」「緑色のはちみつ」といった色彩表現の特徴に関してコラムで解説されている。白亜のイメージの神殿も本当は極採色で彩色されていたらしく、それが広く知られていれば「古代人は色彩の知覚が現代人より未発達だった」という説は無理があるな、となったかも?

www.j-n.co.jp

 

②同じ言語でも時代が変わると色の語彙が異なる例として、古英語には "red gold" を意味するような表現があったことが『英語史新聞』第四号(khelf: 慶應英語史フォーラム)で紹介されている。紫・青・赤・黄といった語彙の守備範囲が今とかなり違っていて面白い。

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③初めて七色でない虹のことを知った本。言語の「語学」でない部分に興味を持ったのは鈴木孝夫先生の著書によるところが大きいかもしれない。

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